日本財団 図書館


 

勉をなんとか耳が聞こえるようにさせたくて、新潟、東京の病院を回りました。しかし、家族の目は冷たかったのです。それを気にしていたら勉はよくなりません。
ある目、私が布団の中で泣いているのを勉が見ていました。子供ながら涙を流して親子で泣いた日もありました。
私の友だちが、「酒田にとてもよい学校がある」と紹介してくれました。勉がお世話になったろう学校でした。そのときはまだ家族は冷たく、私は子供のために仕事をやめました。
ある日、私は地を連れて実家の加茂の海岸をさまよい歩きました。頭に浮かんだのは、一歳にもならない二男の健でした。「健を残して死んだら母親の資格はない」と思い、家へ帰りました。
主人と別れたい気持ちでしたがいろいろと話し合い、「子供のために酒田ろう学校へ行って見てきなさい」生言われました。勉が四歳のときでした。
健をおんぶし地を連れてろう学校の門をくぐりました。そのとき、いまは亡き棚橋校長先生が明るい笑顔で迎えてくれました。「勉がまだ小さいから可哀想だ」といわれ、家が遠いから別居し、主人とも離れて親子三人で学校に入れさせてもらいました。
運悪く私が病気になり、一時は鶴岡へ戻りました。でも、「一日でも休んでら言葉が遅れる」と思い、再び酒田の別居先から毎日、学校へ連れて行きました。主人の妹が、「勉のような耳の不自由な子供がおれば嫁にもらってくれる人がいない」と私に辛く当たり、また学校では、「勉がきかんぼうなので学校をやめてください」と言われました。私はそのときほど辛いことはあ

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION